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詠み人知らず@つくば

劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンの考察4(ネタバレ注意)劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンで使われたギミックの考察2

更新日:4月18日

前回考察したように、エカルテ島パートで精霊達をエカルテ島へ召喚した目的は、精霊達の助けを借りて、傷つき時間の止まったままだった京アニの残されたスタッフを再び制作の現場に呼び戻すことであった。ところで、ユリスパートと同様、エカルテ島パートでも、別のメッセージが隠されている。死者を弔う儀式で海に投げ込まれたフラワーリースがその鍵となる。


エカルテ島はテルシス大陸の西海岸にあるようだが、ガルダリク占領後独立したとあるので、占領前はライデンシャフトリッヒの一部か、南部連合の国家の一つ(アンシェル王国など)に所属していたものと推定している。そうであるなら友好国の主要都市であるライデン市の行事の「海への賛歌」を借用して独自に死者を弔う儀式を行っていても矛盾はない。「海への賛歌」はその類似性から、イタリアの都市ベネチアの「海との結婚(ブチェンタウロ)」を踏まえていることは明らかで、劇中の「海への賛歌」内では匂わせる程度であったが、「海との結婚」には、ベネチア総督(市長にあたる)が指輪を「われわれは汝、海と結婚する」というラテン語のフレーズとともに海へ投げ込み、海とベネチアが一心同体の関係にあることを宣言する儀式がある。ヴァイオレットに素気無くされた市長がはめていたのがその指輪であろう。ゆえに「死者を弔う儀式」の「フラワーリース」は、その形状から「海への賛歌」の「指輪」と同じ意味を持つことになる。それではこの作品では指輪にどんな意味があるのだろう。ファンタジーを基盤とした多くのアニメにとって指輪は特別な意味を持つが、京アニにとっても指輪は重要な意味を持たされてきていた。


追記:公式ファンブックでエカルテ島は大陸西岸に位置するフリューゲルの対岸の島々の一つであることが判明した。大陸戦争ではフリューゲルが消極的北部連合、隣国のドロッセルが消極的南部連合に属しており、この地域は丁度両陣営の緩衝地帯であったようだ。

だから戦争終結後フリューゲル、ドロッセル両国の王子と王女であるダミアンとシャルロッテが結婚することが大陸全体の和平の象徴ともなったわけだが、エカルテ島を含む地域は国力から考えても強国に逆らうことはできず、戦略上もフリューゲルが万が一北部連合から離反することを防ぐための重要拠点でもあるため、戦争中はガルダリク海軍に占領され、さらに戦争で豊かになると騙されて、島の男手も北部連合の兵士として徴兵されてしまったらしい。

したがって、エカルテ島はライデンシャフトリッヒの元友好国ではないかという私の推測は間違っていたが、そもそも「海への賛歌」は、テルシス大陸では戦争前から特に海に面する複数の国で毎年共通に行われていた儀式で、儀式に使う「賛歌」は歴史あるライデン市が代表で毎年作ることになっていた(今年はヴァイオレットが作詞した「命の泉」)とするなら、戦後エカルテ島でも、戦争で途絶えていた「海への賛歌」の儀式を再開するにあたり、今年は戦争で亡くなった方への思いから「死者を弔う儀式」として開催したのではないかと今では推測している。以上のこと(「海への讃歌」は古来からテルシス大陸の全ての国々にとって海を讃える共通の儀式であったということ)が、親族を戦争で殺されてライデンの人達を憎んでいる村民もいるこの島で、当時ライデン市民であったヴァイオレットが作り、ライデン市主催の「海への賛歌」のメインイベントして歌姫イルマが海に捧げた讃歌「命の泉」の歌詞をそのまま自分達の儀式の中でも朗読した理由ではないかと思う。そうであるなら、先に主張した「死者を弔う儀式」の「フラワーリース」は、その形状から「海への賛歌」の「指輪」と同じ意味を持つことになる。という私の仮説は今でも変わらない。


京アニには「境界の彼方」というファンタジーアニメがある。あまり知られていないが、そこにはインド神話を下敷きにした世界観と輪廻転生の思想が設定されている。主人公の一人である「栗山未来」は亡くなった母の骨で作られた指輪をしている。この指輪は、普段は彼女の血の一族としての強すぎる異能力を封印する働きを持っている。しかしこの指輪にはそれ以外の役割も持っている。テレビ版の終盤、「境界の彼方」に飲み込まれることで「現実世界」から消滅して、「境界の彼方」が作りつつあった「新しい世界(平行世界)」側の存在になった彼女が、主人公の半妖である「神原秋人」と共闘して、「境界の彼方」をもともとの持ち主であった「神原秋人」の体内に返し、「境界の彼方」が「新しく作り出した世界」が「現実世界」に取って代わることを阻止した。しかしその結果、「境界の彼方」が作りつつあった「新しい世界」側にいた「栗山未来」自身も完全に消滅してしまった(=死んでしまった)。この時指輪は「神原秋人」が「現実世界」に持ち帰ったが、一時行方不明になったあと学校の屋上で再び「現実世界」に現れ、直後に彼女も復活した。

この意味は、彼女の母の体の一部で作った指輪はその形状から子宮口に見立てられており、ここから「栗山未来」が生まれ直した。輪廻転生したということだったのである。インドでは転生先は生前の「業」で決まる。血の一族という余人に代えがたい「業」を持つ「栗山未来」は「栗山未来」に生まれ変わるしかない。一方、転生前(=生前)の記憶は、(極僅かの例外を除いて)転生後に残ることはない。したがって前世のことは誰もが覚えていない。これは「栗山未来」も例外ではなかった。だから劇場版未来編を通じて「栗山未来」はあたかも記憶喪失のように見えたのである。でも実際にはこの時点ですでに彼女は一度死んで生まれ変わっていたのだから前世の記憶はなくて当たり前だったのである。この作品はさらに、生前の「個人」の記憶は転生後は完全に消失してしまうが、「種族」の記憶は漠然とだが残り、深層心理の中で親から子へ脈々と受け継がれていく(そう言われるとそんな気もしてしまう世界観である。)という設定を加えたため、見る者が余計混乱するように仕組まれていた。ちなみに、「栗山未来」が大事にしていた「盆栽」は、「Born再」=「再度生まれる」という意味である。京アニ得意の駄洒落である。


このことを踏まえれば、海への賛歌を模した死者の弔いの儀式で、エカルテ島の住人(精霊達)が自らのフラワーリースを海に投げ入れた理由は明白である。彼らにいつの日か生まれ変わって、再び京アニで働いて欲しいという願いが込められているのである。彼らは「業」と言っていいくらいアニメの仕事が好きだった。そしてきっとここに戻りたがっている。だから、彼らがすぐにでも生まれ変われる準備をしさえすれば、その「業」に導かれ、アニメ制作の現場に、そして自分達の所に必ず帰ってきてくれるはずだと思ったのである。

しかし、今すぐに生まれ変わっても大人になってアニメの仕事に就くまでにはかなりの時間がかかるだろう。現スタッフと一緒に働けるかというと相当難しい。また、転生後は生前の記憶はないのだから、生まれ変わりを確かめる術もない。それでも、いつの日か生まれ変わって未来の京アニを支えていってほしい。いつまでも待っている。これが精霊達に向けたもう一つのメッセージだったのである。


ところで、今回京アニが仕掛けた、精霊達に生まれ変わってもう一度京アニで働いてほしいという願いを実現するために、どうしても避けて通れないことがある。そもそも、アニメの世界の中だけなら、生まれ変わり(Re-Born)は決して難しいことではない。物語の世界ではなんでもありだからである。実際、「境界の彼方」でも栗山未来は希望通り「アニメの中の神原秋人の住む世界」に生まれ変わる(Born-再)ことができている。本作も、何者かによる魔法で、精霊達は「アニメの世界であるヴァイオレットの住む世界」にすんなりとRe-Bornできている。しかし、京アニの願いはそこにはない。彼らはマジで、精霊達を「アニメの中の世界」ではなく、「我々の住む現世」にもう一度取り戻そうとしているようなのである。それは本気なら狂気に近いのかもしれない。このために必要なことはなにか。精霊達もリース(指輪)も、「ヴァイオレットの住むアニメの中の世界」から、「我々の住む現世」に何らかの方法で戻さなければならないということである。そうして始めて、我々の住む現世にリボン(Re-Born)=盆栽(Born-再)することが可能になるのである。


現世と異世界の境界。数多のファンタジーが追及した事項である。京アニも例外ではない。「ハルヒ」では現世と異世界である閉鎖空間との境界があり超能力者の「古泉」が移動できた。「境界の彼方」では、人の怨嗟の塊とされる「境界の彼方」が一定の飽和状態になると、現世を破壊(初期化)して新しい世界を作りだそうとする(インド神話の、世界は破壊と創造を繰り返すという時間観念が下敷きになっている)が、現世が完全に消滅するまでは「境界の彼方」によって新しく作られた「現世に似せた異世界(平行世界)」が現世と両立して存在するので、その境界に当たる場所からであれば相互に行き来も可能だった(その門番が神原弥生。ちなみに他の登場人物同様神原弥生も何度も転生しているのだが、この役割に支障をきたさないように生まれ変わった後も彼女だけはそれまでの生前の記憶が全て消えずに残されている。それが彼女のあのチグハグな態度に繋がるのである。エンドレスエイトの長門ユキと同じ設定と思っていただいてよい。)

中二病では境界とは不可視境界線に当たるのかもしれない。そして監督は自作である「境界の彼方」の世界観を選んだようだ。現世と同質の異世界(平行世界)では、お互いは鏡像のように対称に存在し、その接点に境界があるだろうという世界観である。そうであるなら、空であれば天高く昇ることでその境界に達し、海は若干ややこしいが、劇場版境界の彼方未来編で考えると、そもそも「母なる海」は母体の体内の海(羊水)と同質である(駄洒落であるが「海」は「産み」に繋がる。)がゆえに、精霊達一人一人が、自分達が将来生まれ変わるための現世への出口である子宮口(指輪、フラワーリース)を「母なる海」に投げ入れることで、将来この現実世界で自分を産んでくれるであろう母の胎内の海(羊水)までそれがたどり着き、精霊達がこの世に転生するための出口(境界)なってくれると考えたようなのである。だから精霊達ははヴァイオレットの最後の手紙に乗って月に導かれて天を目指し、その境界から我々の hi住む現世に帰還した。そして、フラワーリース(指輪)は波間を漂い、カモメや魚、フラワーリースに飾られた貝に導かれて、「続く地平」(水平線のこと。「命の泉」の歌詞にある。)の向こう側のどこかにある二つの世界の境界を超えて、彼らの母となってくれる人達の胎内の海(羊水)に移行し、いつの日か精霊達が自分達の元に生まれ変わってくれるのを待つことにしたのである。


別の角度から考察する。アニメの世界の中でRe-Bornした場所という意味では、京アニは、絵カルテ島(絵-カルテ島と書いた意図は私の第一回考察のブログを参照)という誰もがずっとここに住んでいてもいいと思えるような理想的な島を作品の中に作りあげた。精霊達はせっかくここにRe-Bornしたのだから、劇終了後もしばらくの間だけでも絵カルテ島に留まってもらい、幸せに暮らしてもらうという選択肢もあったはずである。しかし、京アニの現スタッフはそれを選ばなかった。

それは亡くなった友人達の魂を速やかに現世に戻さなければならない理由があったからである。本作には出演してもらいたかったが、劇終了後そのまま作中に閉じ込めてはいけないと考えたからである。何故なら、友人達の魂は生まれ変わるまでは現実世界で今も悲しみの中にいる「家族」と共にあるべきと考えていたはずだからである。


そして、私が実に京アニらしいと思うのは、精霊達が帰還した後のエカルテ島村民の処遇である。魂が抜けてしまった後の体をどう扱ったかということである。私は、エカルテ島の村人達は、1年前に突如として精霊達が具現化して降り立ってエカルテ島の村民の中に新規参入し、もともとの村民は記憶操作されてそのことを気づかないでいるという設定であると考えている。したがって、精霊達の魂が天に帰ったら、新規村民の姿も忽然と消え、もともとの村民はもう一度記憶操作され精霊達がいたことはすっかり忘れてしまいもとの生活に戻るという設定にしてもなんら不思議ではなかった。しかし、京アニは、この人達をそのまま島に残した。特典の絵ハガキやカレンダーでも村人達はヴァイオレット達といっしょに暮らしていることから、そのことはわかる。魂は天に帰ったのだから精霊達も自分が以前精霊であったという記憶は消えているはずなので、今度こそ彼らはもともとこの島にいた村民として新たな人生を過ごしているのであろう。これはどういう意味があるかと言うと、京アニはエカルテ島の二次元の登場人物達を今回のミッションに協力してくれた実在の役者さんのように扱って、感謝の意として劇終了後もエカルテ島の住民として幸せな人生を送ってもらったということなのである。捨てキャラを作らない京アニの面目躍如である。


ところで、あの事件のことを思うと一つ気になることがある。それはエカルテ島に新規参入した彼らが寿命を全うしたかどうかである。劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンは60年後のエカルテ島も描いている。そこに一人を除いて彼ららしき村民の姿はない。ただ、この年月なら年配の村民なら亡くなっていても寿命は全うしたであろうし、あの時こどもだったら劇中の画面に出てこないだけで元気にしている可能性はある。いずれにせよ、国内一たくさん手紙が書かれるような、サムズアップが流行るような人々の心と心が繋がった穏やかな島(この間に新たな戦争がなかったことも間接的に分かる)なら、60年の間に、2019年に私達の世界で起こったような恐ろしい事が起こったはずがない。アニメの中ではあるが、魂(精霊達)が抜けた後の体(登場人物達)は60年間穏やかな人生を過ごすことができていたとわかるのである。これは亡くなった友人達のif(もしあの事件がなかったら、友人達もきっとこの人達と同じように穏やかな一生を遂げたであろう)にもなっている。私はここにも京アニの愛を感じるのである。


ちなみに、60年後に登場した二人の村民は、「顔貌」と「瞳の色」から親子で、初老の郵便局員が、ホッジンズ達が学校で会った子供達の一人の「オールバックの少年」で、若い学校の先生が「彼の子供」ではないかと思っている。そうであるならこのオールバックの少年はもともとの村民という設定であろう。なぜかと言うと、創作の世界では世界改変を行う場合は後に矛盾が起こらないよう辻褄を合わす必要があり、そのためには設定も必要最小限の変化に留める原則がある。ゆえに、いくら魂は我々の現世に帰り、今いるのはその体に過ぎないと言っても亡くなった方々の面影を持つ子供の60年後の姿を画面に登場させるのは京アニも気が引けるはずである。ましてや、その子孫を登場させるわけにはいかなかった。したがって、堂々と60年後の姿を見せることが出来る子どもは彼しかいなかったのである。

ただしこのオールバックの子は不思議な子である。劇中この子の周りには常に、村民姿の「精霊達」と思われる人々がいた。学校でホッジンズと会った時にいたのは、一人はヴァイオレットの手紙を受け取ったあの子で、あの子が誰であるかは、私の三回目の考察のブログで既に言及した。そう考えるとあのカマキリの意味は重い。僕もこんな風にこの世にはいないんだよ。と暗に言っていることになるからである。(その後のカマキリが土に帰っていく描写も深い。)そしてもう一人の背の高い山羊飼いの少年は、ネットに残されているお写真から推察して小物を担当されていたあの方の面影がある。またオールバックの少年が一番最初に登場したシーン(パンジーのシーン)で、若干ぼやけた映像で登場した眼鏡をかけた少年は、キャラデのあの方の面影がある。

追記:ぼやけた映像についてだが もうこの文章を書いてからだいぶ時間が経ったのでひと言付け加える。この眼鏡をかけた丸顔の少年はエカルテ島の村人が死者を弔う儀式を行った時にも登場している。後ろ姿なのでよく見ないとわからないが他の子供達と一緒に楽しそうに走り回っていた。服装が同じなのでわかる。本当は劇中彼の笑顔を描きたかったのだが、たまたま事件報道で使われた容疑者の写真が眼鏡の丸顔という特徴を持つので(別の報道写真を見れば容疑者の風貌はこの方とは全く違うのだが)、涙を飲んでああいったぼかした描写にしたと想像している。


同じくパンジーのシーンで笑い転げていた三人の少女も、作監の方や仕上の方や美術監督の方などなんとなくだが思い当たる方が浮かぶ。三人の少女にうちボブヘアのお二人(設定では双子)は死者を弔うため海にフラワーリースを投げる儀式にも登場し、ポニテの方は大雨の翌朝青空の中、島の道を笑いながら走る子供達としても登場していた(山羊飼いの男の子も一緒)。

つまり、オールバックの少年は亡くなった方々(精霊達)を引き寄せる道しるべのような役割をしていたのである。(オールバック すなわち皆帰ってきて欲しいという意味もあるのかもしれない)。私は、このオールバックの少年は一時期島を出てライデンのC.H郵便社に勤め、博物館に飾ってあったホッジンズの退職記念と言われているセピア色の写真にも写っていると思っている。テイラーとほぼ同世代だが、前列向かって右の青年を疑っている。確認する術はないが、そうであるならあの写真には彼に引き寄せられてC.H郵便社に集まっていた(働いていた)精霊達(事件で亡くなった方々)、正確に言うと精霊達に二次元のアニメ内で体を貸した「精霊達の面影を持つ人々」が多数写っているのではないかと思っている。


ところで60年後のエカルテ島で独自に発行されているC.H郵便社の切手を誰がいつ発案発行したかについて、ネットでは派手なことは好まないであろうヴァイオレットのことだから生前にその話が出ても断っただろう。おそらく、亡くなった後に彼女を偲んで誰かが(国営化された)C.H郵便社に働きかけ成立した事業なのだろうという意見を多く見かけた。誰がについてはホッジンズが長生きしてやってくれたのではという意見があり、もしそうならそれが最も嬉しい答えであるが、私の仮説の通りオールバックの子がC.H郵便社に勤務経験があり、さらに年齢から現在は島の郵便局長の職にあるとするなら、彼が中心となってヴァイオレットを偲ぶこの切手の発行に関与したのではないかと想像している。


エカルテ島の村人についてもう少し言及すると、エカルテ島の死者を弔う儀式が行われた場所で砂山を作りながらライデンの人達への恨みを語ったベレー帽(画家の象徴)の少年は有望と言われた若き作監のあの方ではなかろうか。また、海への讃歌の儀式の後にギルベルトに話しかけた初老の品のあるご婦人に京アニファンなら彼女がデザインした数多のキャラを知らぬものがないベテランのあの方の面影があることも触れざるを得まい。また、私の第三回の考察のブログの中で灯台守の方は色彩設計のベテランのあの方の面影があると述べた。さらに付け加えさせて頂くと、エカルテ島で海への讃歌を朗読した年配のご婦人とエカルテ島の村民として度々登場された金髪のご婦人はお顔は存じあげないが京アニの動画を長く支えてこられたあの方々ではないかと密かに思っている。


前にも述べた通りこの手の話はあまり詮索はすべきではないのでこれで最後にするが、もう一人「先生大好き」と言ってジルベールの手を引き画面上手(かみて)に誘う女の子(ショートヘアなので男の子の可能性もある)のことは述べたい(私、気になります)。自分はあの子は「私達」のことだと思っている。私は第一回考察のブログの中で、本作で京アニは応援してくれた「私達」のことを描かないはずはないと考えた。そして第一回考察のブログでは海と月明かりが「私達」の象徴であろうと考察した。月明かりはある理由で今では違う気がしているが、海は今でもそうだと思っている。ただ、海が示す愛は傷ついた京アニに対して手を差し伸べたいといういわゆる慈愛である。確かにあの時私達にその気持ちがあってそれは京アニに伝わったと思う。だがそれ以上にあの時私達が感じたのは、京アニが大好きでもう一度アニメ制作の世界に戻ってきて欲しいという思いだった。私達のあの時の気持ちは彼女が言った「先生大好き」(京アニ大好き)、「ねえ早く行こう。ほらほら」(早くもう一度アニメ創作に戻ろう。ほらほら)そのものだったと思うのである。あの子は京アニが私達のその思いに気づいて描き入れてくれた登場人物ではないだろうかと思うのである。


蛇足だが、そうなると実は私達も「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」に一時期召喚されていたことになる。と言うことは最長2時間20分この世から消えていたことになる(「憂鬱」のハルヒは1時間30分この世から消えていた)。そしてもうただの妄想だが、それでは我々はどのようにして現世に帰還できたのだろうか。精霊達といっしょにヴァイオレットの手紙に乗って帰ってきたのではあるまい。たぶん私達が乗り移るための体を貸してくれた通称「先生大好きっ子」は白い羽を持っていて、画面上手(かみて)の画面から見えない位置までジルベールを引っ張って行ったあと、今度は私達を運ぶために現世との境界に向かって天高く舞い上がり、私達を一人一人送り届けてくれたのではないか。まあ彼女は実は天使だったという落ちなのだが。


今回再放送で初めて「メイドラ」を見た。ところであの事件が起こったのは「外伝」が完成した直後だったそうなので、「メイドラ」二期の制作が本格的に始まった時期でもあったと推測する。私は今では「先生大好きっ子」(私達が乗り移るための体を貸してくれた子)の役はあの事件を深く悲しんだ小林さんの意を汲んだドラゴンが買って出てくれたのではないかと思っている。周囲にいるもともとの村人を驚かさないように、ドラゴンに変身して飛び立つ時は「認識阻害」をかけたに違いない。

話は変わるが、新作「メイドラS」の「S」は「Super」で「Supreme」な「Second life」が「Start」するという意味と明かされているが、「2」の鏡文字でもある。鏡は「現世」と「異世界(平行世界)」言い換えれば「この世」と「あの世」の境界(鏡界)でもある。「S」の石原監督が「S」ではシリーズ監督に指名した鏡の向こう側にいる前監督や仲間達に、その字が見えるように鏡文字にして、前作の意思を継いだ正統な「2」を始めたよと伝えているのではないかと想像している。

妄想ついでに「消失」のハルヒが部室のガラス窓にスプレーでメリクリと書いた字をキョンがそれじゃ外から見たら鏡文字になっちゃうと言っていた。石原監督がタイトルをどうするか迷って「小林さんちのメイドラゴン」まで書いて机の上に置きっぱなしにしたコンテを見つけた前監督(消失の監督)が向こう側から2のつもりで書き足したら鏡文字の「S」になっちゃったのを 監督が、これだ。ってそのままタイトルとして採用したのかも?


追記:先に書いた「60年後に登場した二人の村民は初老の郵便局員がホッジンズ達が学校で会った子供達の一人の「オールバックの少年」で、若い学校の先生が「彼の子供」ではないかと思っている。」という考察について以下のブログで訂正記事を書きましたので宜しければご覧ください。


その他の「考察」も是非どうぞ。





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