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劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンの考察1(ネタバレ注意)劇場版のギルベルトに京アニの決意がそっと隠されていると解釈できないこともない根拠

更新日:11月5日

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、裏設定として2019年7月に起こった事件のことを比喩で語ろうとしていると解釈できないこともない。


①ギルベルトの右手に原作ではある義手をつけていない:

京アニは今回の事件で代わるもののない「右手」を失ったことの象徴と解釈できないこともない。


②エカルテ島の島名:

フランス語「離れた」から「離島」を表す島名で矛盾しないが、ドイツ語のカルテとは医師の診療録の意味だけではなく、英語で言うとcard、用紙の意味でもあるので、駄洒落だが、絵カルテ(=作画用紙)島と解釈できないこともない。


③エカルテ島の形:

google earthで京都にある京アニのスタジオの周辺を探すと、桃山丘陵(秀吉が伏見城を作るまでは木幡山と呼ばれた)と京都東山に連なる丘陵(この丘陵の北側を横断している名神高速で切り離されていると仮定する)の2つの高台と、その間にある平地(ここに第一スタジオがあった。)を残し、残りは海に沈めた瓢箪型の「架空の島」と見立てれば似ていなくもない。

追記:エーゲ海の小島であるフォレガンドロス島が特定された。ただし、京アニがこの島を選んだ理由は上記の架空の島と最も形が似ていたためと解釈できないこともない。そうであるなら、エカルテ島の真の聖地は、京都の京アニスタジオ周辺となる。


④島の学校:

地中海で見られる漆喰で作られた建物に似せているが、むき出しのコンクリートを思わせる四角い建物は被災後のあの建物を思い出させる。また、独立した建物が個々の教室として斜面を利用して建てられているが、正面から見ると一つの建物(3階は鐘)と見立てることができないこともない。2階部分の前面はテラス状で、そこから階段が伸びているが、休み時間に教室から出てきた子供たちが、鐘(火災報知器のベルに見立てることもできる)が鳴った瞬間、一斉にそこから外へ向かって逃れるかのように階段を駆け降りたり手すりを滑り降りたりしている。あの日ニ階のテラスから外に飛び降りて生還することのできた人達を思わせるシーンであり、またあの時あのテラスから直接降りられる階段があったならという思いも込められているならば、この学校は事件のあった第一スタジオのオマージュと解釈できないこともない。

追記:デイジーが訪れた時にあった街中に移転した郵便局の建物は、今回の事件で被害を免れた(犯人が次の放火対象と考えていたのではないかと報道されている)京アニ本社の建物と解釈できないこともない。室内をよく見ると、壁に火災報知器らしきものが設置されている。


⑤学校の庭にある一本の木:

設定上はオリーブの木となっているが、新聞(京都新聞2020.8.18)でも報道された、第一スタジオの庭に植えられていた「猛火を免れた桜の木」のオマージュと解釈できないこともない。60年後にデイジーが学校を訪れた時もこの木は立派に存在する。


⑥ヴァイオレットとホッジンズが訪れた時の島の天候:

厚い灰色の雲に覆われた曇天は火災による煙の象徴で、それが今もなお京アニの残されたスタッフのトラウマになって続いていると解釈できないこともない。


⑦エカルテ島のギルベルトの家にあった暖炉の火と鍋の湯

暖炉の火は火災の象徴、鍋の中で煮えたぎる湯は京アニの残されたスタッフの怒りを表していると解釈ができないこともない。背中を向けたままのギルベルトが着けていたY字のサスペンダーが、あたかも冥府の王ハデスの二又の槍のように見えたのは私だけではないだろう。


⑧教室の中にあったたくさんの四角い紙の束:

被災した第一スタジオ内にあったサーバーから奇跡的にデータを取り出すことができたと報道されている電子媒体の原画や動画データのオマージュと解釈できないこともない。


⑨ギルベルトの帽子:

ベレー帽は画家のアイテムと考えると、本作のギルベルトは、残された京アニのアニメーター達の象徴と解釈できないこともない。


島のご老人

ベレー帽をかぶっていることから画家(アニメーター)であろう。本作に出ているご老人は、ネットで見ることのできるご尊顔とは違って眼鏡をかけており髭も蓄えているが、それらを外すと亡くなられたあの方の面影がある。「あんただけが背負うことはない。帰るところがあるのなら帰った方がええ。」と言うと、ギルベルトは「いいえここにいます。ずっとここに。」と答えた。この意味は、京アニのアニメーターにとってここエカルテ島が自分の帰る場所です。どこにも行きません。(エカルテ島の真の聖地は京アニスタジオ周辺だから)ということであり、それに対し、ご老人は「(そうしてくれるなら)わしらは助かるがのう。」と返したのだと解釈できないこともない。ご老人が持っていたあの肩掛けかばんの中には今回の事件のために世に出ることのなかったたくさんのあの方のすてきな絵がそこに描かれていたスケッチブックが入っていたのかもしれない。

ではご老人は何故本作で眼鏡をかけ髭を蓄えているのであろうか? テレビ版6話「リオンの回」に出てくる「行方不明になったリオンの優しかった年配のお父さん(リオンの回想シーン(静止画)で登場)」は眼鏡をかけ髭も蓄えていた。そしてこの回の演出担当(=お父さん)はあの方なのである。これは決して偶然ではないだろう。


夕焼け

本来なら善いものの象徴だが、今回は火災の赤を彷彿させ善くないものの象徴として使われていると解釈できないこともない。ギルベルトがヴァイオレットの手紙を読み終わり彼女のもとに駆け出す瞬間に夕日が海に沈み(グリーンフラッシュの場面。そして挿入歌の「道しるべ」も始まるところ)、背景から急激に赤味が薄らいでいく。夕日が海に沈むことは、業火(火災のトラウマ)が消えた瞬間と解釈できないこともない。

ちなみに、前日降り続いていた「大雨」は、ギルベルトに拒絶されたヴァイオレットが流した涙の象徴であることはもちろんだが、今回の事件で多くの人達が流したも重ね合わせているとも想像される。そもそも水は火を消すことができるアイテムである。そうであるなら何故、天からもたらされた大量の水である雨は業火を消すことができなかったのだろうか。それはヴァイオレットとホッジンズが訪れた時、ギルベルトは屋根のある部屋に閉じこもっていたためである。雨はいかにその勢いが強くとも部屋の中に入れないので暖炉の火を消すことが出来なかったのである。故に大雨(嫌なことは無理にでも忘れればいいといった強引な解決手段の比喩であろう)では彼の中の業火、火災のトラウマを癒すことはできなかったのである。それはまるで北風と太陽の北風のようでもある。

しかし、同じ水でも母なる海に夕日が沈むことで火災を彷彿される「赤」は浄化され、業火(火災のトラウマ)は一度は完全に癒された。だからギルベルトはヴァイオレットの元へ駆け出すことが出来たのである。ところが夜になってしまうと桎梏の「闇」が訪れて、あの日建物に充満した煙が作り出した悍ましき「闇」と再びシンクロしてしまう。折角克服できたあの事件の記憶をまた呼び覚ましてしまう。そこで京アニが到達したこれしかないという尊い希望が、真っ白な月明かりによる闇の浄化だった。そんなふうに解釈できないこともない。


⑫2人が海に飛び込んだこと:

海は生命の母であり、海に抱かれること、海に飛び込みそこから顔を出して現世に戻ることは、ギルベルトが京アニのアニメーターの象徴であると考えるなら京アニの残されたスタッフがアニメ制作の現場に復帰することを意味していると解釈できないこともない。

 本作では善くないものの象徴である赤い夕日が海原の地平線に沈み(滅し)、それと入れ替わって海原の地平線から善いものの象徴である白く光る月が登った(生まれた)。このことから母なる海は胎児を育む羊水にも例えられよう。駄洒落であるが「海」は「産み」にも繋がる。ギルベルトがヴァイオレットを抱き占めるクライマックスで、月は始めその光が波に映るだけで背景の夜空には直接描かれず、シーン最後のエカルテ島の全景が写った時に始めて夜空に輝く姿を見せたが、その前にそっと海から生まれ夜空に登っていった(闇を浄化していった)に違いない。

 ヴァイオレットが船から海に飛び込んだ時一度沈んで顔を出したが、頭が出る瞬間波間にエンジェルリングが見えた。この光のリングは海を羊水とするならばその出口である子宮口の暗喩であの時彼女が新しく産まれ直したことを意味している。

ちなみに本作では海(産み)と関係したリング状のものに子宮口の意味を持たせることをもう一つ行なっている。詳しくは考察4をご覧いただきたい。


⑬島の灯台内部のらせん状の階段構造:

劇中では灯台内部がらせん状の階段構造になっていることは分かりにくいが、よく見るとヴァイオレットとホッジンズが泊まった部屋も、下から登っていく入り口と、その反対側にはさらに上に登る出口があることから、この部屋は丁度、階段の踊り場に匹敵するような作りになっており、灯台内部のらせん状の階段構造の一部でもあることがわかる。

追記 公式設定集で灯台内部の全貌が明らかにされ、らせん階段も確認できた。


構造上、灯台内部にらせん状の階段があることはおかしくはないが、あの第一スタジオの「らせん階段」を思い出してしまう以上、無関係とは解釈しがたい。

映画では嵐の日にあの灯台の白い光が終夜360度、闇夜を照らし続けていた。亡くなった方々の魂が、やっとアニメ制作の場に戻ることの出来た京アニの残された仲間達が再び遭難しないように、らせん階段を登って灯台の白い光となって一晩中照らし続けてくれたと解釈できないこともない。電信機のある部屋に蓋のついた壺(追記 公式設定集で水甕と判明)のようなものがあり、間違えていたら申し訳ないが骨壺のようにも見えた。

追記:このシーン(主人公達の灯台への避難からユリスの臨終までのシーン)は物語の最大の山場でありピンチである。しかし、ヴァイオレットがユリスの手紙の配達と代筆をアイリスとベネディクトに頼むことを思いつき、アイリスが電話を使う決断をするという本編屈指のシーンにつながった。故人達の魂(霊)が灯台の白い光となることでヴァイオレットやアイリス、そしてこのシーンを作り上げた京アニの残されたスタッフ達を陰ながら励まし、道しるべとなってくれたからこのシーンが生まれたと解釈できなくもない。

京アニの従来の制作姿勢からして、本作はあの事件が起こるずっと前からみんなでいっしょに構想していたはずであり、サーバーに残っていた故人達の原画もこの映画できっと使われたはずである。つまり、この映画は紛れもなくエンドロールに記されたスタッフみんなで作りあげたものであり、そのことをこのシーンで語ったと解釈できなくもない。

さらに特筆すべきこととして、このシーンではヴァイオレットからアイリスへの「引継ぎ」も果たされている。序盤の、来年の海への讃歌にかこつけてアイリスが言った「任せて。」といいうセリフは、この「引継ぎ」の場面に掛かる長い伏線でもある。京アニの残されたスタッフは故人達の思いを引継いでこれからもずっとアニメの制作を続けていく。安心して欲しい(「任せて。」)と、アイリスを通じて伝えていると解釈できなくもない。

「引継ぎ」はヴァイオレット・エヴァーガーデンのキーワードである「代筆」の精神にも繋がる。伝えたい思いを言葉では伝える事が出来なくなってしまった亡くなった仲間達の思いを自分達が代わりに「代筆」していく。これからの作品作りでも思いはいつも彼らと一緒にあると宣言したと解釈できないこともない。


⑭ヴァイオレットと白:

舞台挨拶で「京都アニメーション内ではヴァイオレットのことを“真っ白な人”と呼んでいる」とのこと。本作では白は火災の赤と煙の灰色を浄化する善いもので、ヴァイオレットもまたその属性を持っているという意味とも解釈しうるが、自動手記人形としてのヴァイオレットは無地の便せん、ギルベルトを画家に見立てて京アニの残されたスタッフ達の象徴とした場合、ヴァイオレットはまっさらの作画用紙・カンパスのことではないかと想像を巡らせれば、エカルテ島(絵カルテ島)でギルベルトがヴァイオレットの愛を受け入れることは、京アニが京都のスタジオで作画用紙・カンパスを手にして創作を再開してみせるという決意の象徴でもあると解釈できないこともない。

ちなみに、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの公式パンフレットは題名以外は表紙も裏表紙も真っ白の仕様だった。これはまっさらの作画用紙・カンバスを模したものと解釈できないこともない。使われている紙のザラザラの質感も作画用紙のそれを思わせるものだった。

追記:視点が変わるが、劇中ヴァイオレットが最も白かったのは灯台に避難した時で、雨に濡れたのでトレードマークの青い上着を脱いで白のドレスだけになったことと、寒さのため顔の血の気がなくなったために白さが際立っていたためである。あの時、ヴァイオレットはギルベルトの「帰ってくれ」という拒絶に、今では彼の気持ちが少しはわかるからという理由で、ドア越しに彼の声を聴けたのでもう満足だと思い込もうとした。

人々の素直な気持ちを引き出して、依頼者が前に進もうとする気持ちを紡いできたヴァイオレットでさえ自分の便せん、カンパスに自分ひとりでは自分のための希望の文字や絵は描けない。カンパスがあっても描き手がいなくては絵は完成しない。誰も一人では生きていけず、人が前に進むためには誰かの助けが必要である。ここに京アニが創作し続ける意義はある。人に愛がある理由がある。と解釈できないこともない。ちなみに劇中もう一か所、白のドレスのみのヴァイオレットがいる。ED後の指切りの場面である。こちらは描き手に出会えた作画用紙・カンパスが幸せそうにしている場面と解釈できなくもない。

追記:パンフレットについては真ん中に書かれた文字を宛名に見立てると拡大版にはなるが「レターサイズのまだ切手の貼っていない白地の封筒」を模しているとも解釈できなくもない。


⑮ヴァイオレットと紫:

主人公をヴァイオレットと名付けて京アニ大賞に作品を応募したということからも、原作者は始めから意識していたと推測するが、京アニと言えば宇治(周辺)。宇治といえば源氏物語。源氏物語と言えば「紫」の上。今の時代には不相応な年の差恋愛という批判もあるが、いっそ古典の本歌取りと思ってみてもいいのでは。作中でも、(この結末では)「気持ち悪いでしょうか」と映画を観ている人達に対し気を使っているようなシーンもあるし。

言うまでもなく源氏物語の作者は「紫」式部。人の心を紡ぐ物語を書いた人。

追記:ところで原作者さんの「暁佳奈」はペンネームだとしたら、あかつきは「あ」且つ「き」、KANAはK an(d) Aと分解できる。「あ」 且つ「 き」を逆から読めば「き」&「あ」で京都&アニメーション。K&Aも同様である。偶然かもしれないが原作者さんの京アニレスペクトにも思えて微笑ましい。


⑯デイジーが訪れた時の島の天候:

この日も曇天である。エカルテ島は地理的に晴れの日の少ない地域という設定もあるのだろうが、曇天の灰色は本作では火災の煙の象徴でもある。60年経ってもあの火災のトラウマは完全には消え去ってはいないのである。どれ程時が経とうとも無かったことにはならない事件だからである。

しかし、この日は曇天の中大粒の真っ白な雪が灰色の空を覆い隠さんばかりに降っていた。これは、真っ白な「雪」も聖なる色として、煙のトラウマを浄化するものであるというメッセージであると解釈できないこともない。

そしてそれは、あの事件の煙のトラウマだけでなく、その後も我々の身に訪れるであろう数々の出来事がもたらす灰色の心をも浄化してくれるはずであろう。

デイジーはヴァイオレットの足跡を追いかけて「雪」のエカルテ島を訪ねたことで、その真っ白な「雪」によって、両親とのわだかまりからいやされ、両親宛の手紙を書くことが出来た。

CMの頃から真っ白い封筒と、降る「雪」を重ねることで、「雪」はヴァイオレットの象徴(Violet snow)とされている。

今後我々に心の曇天が訪れた時、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品を思い出して欲しいという願いが込められていると解釈できなくもない。


⑰ヴァイオレットのリボン:

ところで、デイジーがエカルテ島を訪れた時、移転した新しい郵便局の花壇の木の枝にやけに大きく結ばれたリボンがあった。(あの大きさだと二本のリボンの端と端を結んで一本にしてからそれを一つの輪にしたようにも見える)。ヴァイオレットをレスペクトする島の郵便局員が彼女のことを忘れないように結んだものだと思うが、映画の始めの頃、デイジーが祖母の家の窓に向かって伸ばした手を覚えているだろうか。あれを陸上競技のリレー走の次走者が伸ばした手と見立てて、あの結ばれたリボンがバトン代わりのタスキと想像してもらえば、デイジーの長い旅は、第一走者のヴァイオレットから第二走者のデイジーにタスキ(伝えたい思い、言葉にしないと伝えられない大切なこと)が受け継がれていく過程を表していたと解釈できないこともない。


具体的には、映画冒頭二本の轍が刻まれた道を、時計の秒針と思われる音(始めは柱時計の音が、sincerelyのテロップが入ったあたりからは今風の電子音が使われ、この間に過去から現在へ長い時間が経過したことがわかる。)を足音に見立てることで、画面上は見えないが、「何者か」がその道を前方に向かって歩いている情景を思い浮かばせる趣向になっている。さらにラストでも同様の二本の轍が刻まれた道が映し出され、途中からそこを歩いているヴァイオレットが登場することで、「何者か」はヴァイオレットであったことが明かされる。さらにカメラが彼女を追い越してその先の道を進んでいくが、その道が冒頭の道とそっくりの二本の轍が刻まれた田舎道であることから、時間軸を考えると実はこの道は映画のラストから冒頭に時間的につながった一本道であることを暗示する作りになっている。この意味は、ヴァイオレット(またはヴァイオレットが寿命を全うした後はその精神)が、この二本の轍の刻まれた一本道を未来の人であるデイジーのいる時代まで立ち止まることなく歩いてきた(ヴァイオレットをリレー走の第一走者とするなら「走ってきた」)ことを示していると解釈できないこともない。


ヴァイオレットをリレー走の「第一走者」(彼女のタスキは左右のリボン)、デイジーを「第二走者」として、デイジーがお葬式が終わったばかりの祖母の家の窓から外を振り返り、ヴァイオレットがこちらに向かってくる気配を感じてタスキを受け取る為に手を伸ばし第二走者(候補)として走り出した(助走)。そして始めに訪れたライデンはまだテイクオーバーゾーン内で助走している最中で、エカルテ島を訪れて雪に浄化され癒されることでヴァイオレットの精神を受け継ぐ次走者としての資格を確定し、移転した新しい郵便局(この建物は被害を免れた京アニ本社のメタファーでもある)まで辿り着いたところで第一走者のヴァイオレット(この時ヴァイオレットはもうこの世にいなかっただろうから彼女の精神ということになる)が追いつき、そこでタスキを受け取り(バトンパス)、次の喫茶店のシーンで両親への手紙を書くことが出来た(ゴール)と解釈できなくもない。


⑱ヴァイオレットが歩く道に刻まれた二本の轍:

二本の轍が刻まれた道をヴァイオレットはゆっくりと歩いているので、このシーンがリレー走に見立てられているという実感は沸きにくいが、上記⑰で検討した解釈が正しいなら、ラストから冒頭に続く一本道は「第一走者」であるヴァイオレットが走ったリレー走のコースを示しており、そこに刻まれた二本の轍は、トラック競技で各走者の「セパレートレーン」を示すために白線引きで地面に書かれた二本の白線と解釈できないこともない。走行距離が長いトラック競技では、走者は始めは各々の「セパレートレーン」内を走らなければならないが、途中からレーンの区別がなくなり各走者が最短距離を走る「オープンレーン」になる。冒頭の「轍の刻まれた道」のシーンから「アンの家につながるジグザグの道」のシーンになると、走者目線と思われるカメラの動きはジグザグの道のとおりには進まずに真っすぐ最短距離を進み、道にも二本の轍(セパレートレーンの白線)はなくなる。これは走者が「オープンレーン」に入ったためと解釈できないこともない。


ちなみに、ヴァイオレットが「第二走者」であるデイジーにバトンパスした「伝えたい思い」とは何か。言うまでもなくデイジーがエカルテ島の喫茶店で両親宛ての手紙を書きながら呟いた「言葉で言えなくても、手紙ならできるかも。私は素直な気持ちを伝えたい、伝えたいあの人は、今、この時にしか居ないから。パパ、ママ、ありがとう。」と、それに続く「あいしてる」であろう。この「あいしてる」という言葉の意味は、ネットの多くの方々の考察にあるように『ヴァイオレットとギルベルトが最後に成就することができた男女の愛、古典ギリシャのエロス)』であり、『リュカがユリスに伝えることができた「いつまでも友達だよ。」という友情・友愛、古典ギリシャのフィリア』であり、『ホッジンズとC.H郵便社の面々や、マグノリア家四代、そしてブーゲンビリア家の夫人や兄弟の中で描かれた家族愛、古典ギリシャのストルゲー』であり、『無償の愛、古典ギリシャやキリスト教のアガペー』というこの世界にある4つの愛をすべて含んでいることは言うまでもないことだろう。

 本作にアンの孫であるデイジーの物語を組み込むことは劇場版制作が決定された初期の段階で構想されたものだと聞く。そうであるならばそれは事件前であり、その時の段階ではこの場面で京アニがデイジーに最も語らせたかったのはテレビ版以来の主題である「あいしてる」の方だったのではないかと感じる。しかしあの事件の起こった後の今、デイジーを介して京アニが最も伝えたかった思いは「私は素直な気持ち(sincerely)を伝えたい、伝えたいあの人は、今、この時にしか居ないから」と「ありがとう」の方に変わったのではないだろうか。もちろんこれらの言葉も広義には「あいしてる」と同じ意味ではある。しかしあの事件を経た今そこに何とも表現できぬ切実な思いを感じるのである。


また、デイジーが両親宛ての手紙の最後に書いた「あいしてる」のテロップが画面に映された直後に(つまり第二走者のデイジーがゴールした直後に)、ヴァイオレットが歩く道のシーンに戻ることから、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンという映画は、「第一走者」である「ヴァイオレット」から「第二走者」である「デイジー」へ、そして再びヴァイオレットへ、陸上競技場のトラックのように円環状のコースを辿ってバトン(タスキ)が受け継がれていく構造になっていることがわかる。そうすることで、ヴァイオレットがデイジーに渡した「あいしてる」というバトン(伝えたい思い、言葉にしないと伝えられない大切なこと)はまたヴァイオレットの元に戻る。そして、この後説明するが、この「あいしている」のバトンが「手紙」へと変わり、その「手紙」をヴァイオレット自らが私達宛てに届けてくれるのである。すなわち劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンはそれ自身がヴァイオレットから私達に宛てた手紙になっているという壮大な仕掛けが用意されているのである。


劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンはそれ自身がヴァイオレットから私達に宛てた手紙になっているというギミックは、2020年11月12日、MOVIX京都にて行われた『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』スタッフトークでの監督の以下の発言で明かされている。監督「・・この作品が、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というシリーズの集大成という最後の位置付けだったので、作品全体が「観ていただいた方に対するヴァイオレットからの手紙」という構成にしたいと、絵コンテを描く前からずっと思っていたんです。」


監督が仕掛けたギミックを考察してみよう。ラストの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というテロップは、「タイトル」だけでなく「サイン」でもあると別売のstory boardで明かされている。ここでいう「サイン」を手紙の末尾に書く「署名」と見なしてみよう。署名がこの位置に記されているということはこの作品全体が一つの「手紙」であると見なすことができる。ところでフォーマルな手紙であれば英文でも日本文でも「本文」「敬具」「署名」の順に続いて書かれる。英文ではsincerelyという言葉がおあつらえむきに「敬具」として使われるので、それに気づいた人はどうにか本作でそうなるよう辻褄が合わせようと考察したはずである。私も御多分に漏れずいろいろと考えた。しかしsincerelyを「敬具」とするには冒頭の位置ではどうにも収まりが悪いのである。ネットの中ではsincerelyのテロップの背景とラストの「署名」のテロップの背景色が同じなので、この二つのシーンは、その間に挟まっているシーン(本編そのもの)をすべて目隠ししてしまえば、「敬具」であるsincerelyと「署名」である「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というテロップが一続きになっているとみなせるから、「敬具」「署名」の関係が成立しているという説もあった。しかしこれではちょっと強引な感じは否めず、長らく疑問のままであった。


 現在私が推測していることは以下の通りである。sincerelyのテロップはあの事件前の構想の段階ではおそらくラストの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のテロップの直前に入り(その時はテロップを入れるのではなく暗示的にTrueさんのsincerelyを流したかもしれない)、誰もがsincerelyは「敬具」として使われているとわかるように作るつもりだったと想像している。

 しかし、あの事件の後、京アニはsincerelyをあえて「敬具」の意味には使わないことにした。その理由は、この作品でsincerelyに別の重要な意味を持たせたかったからだ。

 先ほど触れたように、当初デイジーを介して京アニが伝えたかったのは「あいしてる」を伝えることであった。テレビ版との差異を言うなら「あいしている」と思うだけでは駄目、伝えることが大切という意味であろう。ゆえに、この段階で京アニは「あいしてる」を言葉で伝えることができさえすれば、すべての人々にその思いは伝わると信じて疑っていなかった筈である。人々の善意を信じ続けた京アニにとってこれは当然の帰結である。しかし、事件後彼らはこの世界は本当に信じることができるのかと苦しんだに違いない。それでも彼らは信じようとした。その軌跡がこの作品のような気がする。気持ちを伝えることは間違いではないはずだ。ただそれだけでは何かが足りないのではないか。この作品を作る過程でそう自問自答し続けたのではないか。

 そうして彼らは「あいしている」を伝えるだけでは不十分と気づいた。なぜなら「口先だけの」ってこともあるから。だからそこに「心から=心を込めて(sincerely)」がなければならないと思い至ったのではないか。心が込もっている「あいしてる」、すなわち「心からあいしてる」でなければならないと。

 さらに、伝える言葉に心を込める事が大切なのは「あいしている」だけではない。誰かに伝えようとする言葉ならそれはどれにも当てはまる。「ごめんね」も「ありがとう」も。この作品はそこまでも言おうとしていると感じている。

 sincerelyのテロップは冒頭、ヴァイオレットの足音に模した時計の秒針の音が古風な柱時計から今風の電子音(デイジーの時代で考えるならゼンマイ時計のそれでもよい)に変わるところに挿入されていた。この意味は、秒針音の変化を使うことで、世界はある出来事(あの事件)を契機に過去(事件前)と現在(事件後)の二つに大きく変わってしまったという暗示であり、その間のシーンにsincerelyのテロップを入れたということは、「あいしてる」を伝えさえすれば人々に伝わった以前の世界から明らかに変わってしまったこの世界で、人々が再び人の善意を信じるためには、ただ伝えるのではなく、「心から(sincerely)」伝えなければならないのだというメッセージを送ったのではないか。伝えたかったたくさんの人を失った京アニが、伝えたい人がいつの日かいなくなるかもしれないということに無自覚な私達にこの作品で何を置いても伝えたかったメッセージがこれだったのではないか。人の心は本来善である。悪はその心が曇るから起こるのだ。だから心から素直にお互いの気持ちを伝え合うことが大切なのだと。

また、各テロップの配置という視点から作品を見ると、本作は「sincerely(心から)」と「あいしてる」という二つのテロップで劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン本編を挟んだ形に作られているのがわかる。「心からあいしてる」が劇場版全体の根底に流れる主題であることはこのことからも明らかであろう。

思えば「心から愛してる」は第一話のインテンスのシーンでギルベルトがヴァイオレットとおそらく今生の別れと思った時に言った言葉である。その後テレビ版では「あいしてる」という言葉の方が主体になった。テレビ版はヴァイオレットが「あいしてる」の意味を探す成長物語だから当然のことである。一方「心から」は「あいしてる」なら当然ついてくる気持ちだからとさほど強調されずにいたが、劇場版でその重要さが新ためてクローズアップされたのである。逆に言えば「心からあいしてる」は元々ヴァイオレット・エヴァーガーデンひいては京アニの原点であった。故に京アニは劇場版で原点に回帰したのである。


 では、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンという手紙の「敬具」がsincerelyではないとすると「敬具」はあるのだろうか。よく見ると「敬具」はちゃんと存在する。英文の「敬具」は親しい人の間柄では「love」も使う。デイジーの手紙の最後の一文である「あいしてる」のテロップが「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という長大な手紙の「敬具」になっていると考えればいいのである。


さらに、「あいしてる」と書かれたテロップの直前に、ヴァイオレットをモチーフにしたあの「切手」を映し出してから、ヴァイオレットが実際に歩いていくシーンへ繋がっていくことで、見る者にまるで切手の中のヴァイオレットがそのまま飛び出してラストの道を歩いているような印象を持たせている。そのことによってラストで歩くヴァイオレットは「リレー走者」から彼女の本来の姿である「ドール」へと変わったことも暗示している。また、ドールの「お客様がお望みならどこへでも駆けつけます。」という理念は郵便配達人の理念と同一であることに着目すれば、ラストで歩くヴァイオレットは「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という「手紙」を旅行鞄に入れて私達の元へ運ぶ「郵便配達人」に擬されていると解釈できないこともない。


以上から、本作でのヴァイオレットは、始めは「リレー走の第一走者」としてトラックを一周回って彼女から見て未来の人である「第二走者」のデイジーにタスキを渡し、もう一度デイジーから「あいしてる」のタスキを受けとった後は「郵便配達人」となり(一人二役)、今度は私達に「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という「手紙」を届けてくれたのだと解釈できないこともない。


また、ラストでヴァイオレットは後ろから来たカメラに追い越された後に足音だけになるが、これは人としてのヴァイオレットは寿命を全うして精神のみのバイオレットになったことを暗示するものであろう。そう考えると、ラストの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というテロップには3つの意味を持つ。一つ目はタイトルクレジット、二つ目は「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という「手紙」の署名の役割(敬具は「あいしてる」)、三つ目は生身の人間であったヴァイオレットが時を経て「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という名前(形のない精神)となったという意味である。そしてヴァイオレットが名前という精神となったことで本作を見た全ての人々の心の中に永遠に生き続けることになった(Her sprit lives on.)のだと解釈できないこともない。


ところで視点が変わるが、ヴァイオレットが歩く道の前後に刻まれた二本の轍は、テレビ版EDの線路も含めて考えると次のような解釈も可能だと思っている。嵐の日に轍で刻まれた地面の溝が流れる水で幾つにも分かれてしまったシーンの印象が強かったからである。人と人の関係は本来、2本の轍や線路のように、並んで寄り添って途切れることなくずっと続いていく。時に本作の嵐の時のように刻まれた地面の溝が幾つにも分かれてしまうこともあるが、雨がやみ日の光が当たることで地面が乾き何時しかそれも収まっていく。ヴァイオレットの役割は暗い夜道の灯りとなることで、轍や線路のように並んで歩む人々が道に迷ってお互いがはぐれないように、歩み(時)を止めないように、道しるべとなることであったと解釈できなくもない。ヴァイオレットにとってギルベルトの存在がそうであったように。さらに本作の灯台の光(故人達の思い)が京アニのスタッフにとってそうであったように。


⑲追記:

リレー走のギミックについて前説を一部訂正したい。実は自分はお恥ずかしながらBDを見るまで気づかなかったのだがデイジーがエカルテ島を訪れた時、リボンは移転した新しい郵便局の花壇の木の枝だけでなく学校の入り口の門のすぐ横にあった柵のところにも結ばれていた。

結論から言うとこの2つのリボンは同じものである。その上でもう一度リレーのギミックが成立するかを検討したい。その際二つ了解してもらいたい事項がある。一つ目は前説では競技としてのリレー走の規則を厳密に守った設定で考えたがここでは思い切ってそれを緩和させていただく。なぜなら本作がリレー走というギミックを使った目的は競技や競争を言いたいのではなく、伝えたい思いを次の人に伝えていくこと、すなわち伝えたい思いをリレーすることの大切さを示すための比喩だからである。したがってリレー走と言っても走る必要さえない。二つ目はヴァイオレット・エヴァーガーデンでは作中手紙が飛ぶが、劇場版ではさらに精神(または魂)となった存在はその手紙に乗って移動できるという設定を許容していることである。同様に魂なら他人の体の一部にも乗り移って移動もできる。詳しくは私の第三回の考察のブログを見ていただければご理解頂けると思う。


それでは前説を訂正した「リレーに見立てたギミック」を具体的に説明する。

映画の最後に轍で見立てた「セパレートレーン」を歩き、遂には寿命を全うして精神となったバイオレットが60年後の映画冒頭に戻り、「オープンレーン」をデイジーのいる家に向かって歩いてくる。そしてここが最初の訂正箇所なのだが、なんとデイジーが窓に伸ばした掌の中に精神となったヴァイオレットが直接乗り移る(手に精神を乗せることで手紙ならぬ手神になるということか)。次にデイジーがサンルームでアンの手紙を読むのだが、デイジーが手紙を持つことで彼女の手(神)からアンの手紙にヴァイオレットが乗り移り、空高く舞い上がる。そうして60年後の今は博物館となったC.H郵便社の彼女が以前いた部屋の窓枠に到達する。

先に述べたように人は寿命を全うして形のない精神になった後も「名前」となって永遠に残る。その意味で魂と名前は同等である。そして窓ガラスを通してそれを見ること(透明な窓ガラスを通す事で見えない物が見える特別な眼鏡で見たのと同じことになるのだろう。)で手紙に乗っているヴァイオレットの魂が名前(文字)という目で見える姿に写し出される。それが「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というテロップなのである。

魂となったヴァイオレットは懐かしいこの場所でギルベルトとの出会いと彼に自分の名前をつけてもらった時の思い出に一時浸っていると、突如としてこの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というテロップを読み上げるように、60年前のライデンシャフトリッヒの海の讃歌の会場で司会者によって彼女の名前が呼ばれる。そしてこの瞬間両者がシンクロするのである。ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝では「名前を呼ぶ。それだけで二人の絆は永遠になる」がテーマである。この場合、二人とは過去と現在のヴァイオレットのことと考えれば、名前を呼ばれた瞬間に時空を超えてヴァイオレット・エヴァーガーデンの精神が60年前の生身のヴァイオレットと同期してヴァイオレットが60年前の世界に移動したことになるのである。(長門ユキが時空を移動する方法に類似する。)

その後、タスキであるリボンは彼女の髪留めとして使用し、途中ある理由(詳しくは考察3をご参照下さい)で一度落としたがディートフリートが拾って届けてくれた。主人公の生身のヴァイオレットが第一走者としてエカルテ島までの物語を走り抜けるのである。

そして彼女がエカルテ島で人としての寿命を全うする直前に、60年後に第二走者のデイジーが訪れることを予想して二本のリボンを一本にしたタスキを学校の柵に結びつけ、自分はエカルテ島のある場所に待機した。だがタスキを学校の柵に60年間も置きっぱなしにしてあると誰か子どもがイタズラして取ってしまうかもしれない。そこでおそらくあのリボンにはデイジーにしか見えないように認識阻害がかけられていたと推測する。

一方、「未来の人」であるデイジーが正規の第二走者として実際に歩いた(走った)距離はエカルテ島の学校から新しい郵便局までと短い。しかし両親との葛藤という灰色の心を抱えていたデイジーはヴァイオレットの足跡を訪ねてアンの家、ライデンシャフトリッヒ、エカルテ島と長い旅を続け、さらにエカルテ島で曇天をも癒す雪に浄化され、学校の柵に結ばれたリボンのタスキを無事受け取ることができた。そして正規の第二走者として郵便局まで走り終え、花壇の木にこのタスキをかけたのである。

その後デイジーは郵便局でヴァイオレットの絵柄の切手とレターセットを購入した時に、年配の郵便局員との会話の中で「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」とヴァイオレットの名前を呼んだ。この言葉を合図に切手の中で図柄として眠っていたヴァイオレットが召喚され、デイジーが郵便局の庭の木にかけておいたタスキを再び受け継ぎ私達に劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデンという手紙を届けるために再び歩きだしたのである。

デイジーは最寄りの喫茶店で両親にあの手紙を書き、ヴァイオレットはタスキを髪留めにして敬具と署名を入れた「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という「手紙」を旅行鞄に入れ、映画館で待つ我々に届けたのである。

さて、競技としてのリレー走ではタスキはテイクオーバーゾーン内で必ず手渡ししなければならない。柵や木に一時的にかけるのは反則である。また競技としてのリレー走では走者には何人も触れてはいけない。冒頭で精神となったヴァイオレットがアンの手紙に乗り移る前にデイジーの掌に乗ってサンルームまで運ばれたがあれは見つかったら失格である。だが、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンがリレーで見立てたかったのは競技としてのリレー走ではなく、伝えたい思いをリレーすることだったわけだからこれでいいのである。


⑳ラストの指切り:

ヴァイオレットとギルベルトの永遠の愛の約束と共に、亡くなった方々、京アニを応援する方々に対する京アニ復活の決意の表明と解釈できないこともない。後ろの窓枠は十字架になっている。京アニがよく使う見立てである。


㉑あらためて考察する海と月明かり:

作中、火と煙を思い起させる赤や曇色と闇のトラウマをいやしたものは、白い雪、灯台の白色光、海、月明かりの白色光であり、これらはみな「背景」である。「背景」がしっかり描かれているから表現できた。京アニだからできたとのだと思う。

ところで、京アニ復活につながったもう一つの奇蹟は、世界中から大勢の人達の有形、無形の応援支援が届いたことである。ホームページ等で公式のお礼はされているが、このことを京アニが作品で伝えたいと思わないわけがない。本考察では、雪はヴァイオレット、灯台の光は故人達のエールを象徴したものと考えたが、海や月明かりが象徴したのは、世界中のたくさんの人達の有形、無形の応援支援のことだったのではないか。海や月明かりは自然、そして人々を取り巻く世界そのものである。どんなに辛い時があってもこの世界はこんなにも善意に満ちていて、支えてくれる大勢の人達がいる。そしてそれが京アニ復活の道しるべになった。と伝えることで、感謝の念と将来の希望を表そうとしたのではないか。


最後に、本作では赤は善くないものの象徴になってしまったが、さりげなく作中後半に解消されている。一つはギルベルトが幼いヴァイオレットに本を読んであげるシーンで、暖炉で赤々と燃える火はとても暖かく感じた。もう一つは花火で、連射の最中に一部ではあるが赤味が入っていた。もう大丈夫、京アニは赤も使えるようになる。と思わせてくれた。


その他の「考察」も是非どうぞ。









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